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幕末史  10

昭和史があまりにも面白かったので、同じような形で書かれているという幕末史も読んでみました。

こちらもオススメ。

有名な幕末の出来事が押さえられるほか、明治維新後の新政府の組み立て方は初めて読んだ気がします。

幕府を倒すだけではなく、その後にどんなシステムを作るのか。

ますます幕末が気になる一冊でした。

幕末史 (新潮文庫)
幕末史 (新潮文庫)半藤 一利

新潮社 2012-10-29
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日本の幕府はそれほど無能ではなく、西欧列強が次々に東南アジアを植民地にしているといった世界情勢をかなり多く取り入れていました。

日本人は往々にして、たしかな情報が入ってきていても、起きたら困ることは起きないことにしょうじやないか、いやこれは起きないに違いない、そうに決まっている、大丈夫、これは起きない、となってしまうんです


多くの人が阿片戦争のショックによって目を開かされ、西欧の学問を幕学ぶようになりました。

象山は最初のペリー来航時は大穰夷論者だったのですが、二回目になると超開国論者になっておりました。思想の転換後は他の人のようにぐらぐら揺れることはまったくなく、「これからはどんどん外国へ行ったほうがいい」と門下生の松陰をたきつけたようです。

アジテーターがいて、それに乗つかる多くの不満分子がいて、それが京都の朝廷(貧乏公家)とうまく結びつき、一見、新しい世界が開けるような幻想朧のもと権力奪取の運動が広まっていった、それがこの時代の特色じゃないかと


勝麟太郎は軍艦奉行並(海軍次亘に任命されます。ともに老中たちが仰天する思い切った起用でした。


慶喜さんはこう述べたそうです。
「幕府がどうのという小さなことではない。これは国家全体の問題である。すでに私は幕府はなきものとみて、もっぱら日本全国のために考えている。そのためには開国なんだ」

時間稼ぎのためにとりあえず嬢夷ということにして、朝廷からの勅使が何を言い出すのか見極めてから対策を考えようという事前の話し合いを無視し、慶喜は「朝廷何するものぞ」の勢いを見せたのです。


大政奉還は、坂本龍馬の意見を聞いて山内容堂さんが正式に持ち出しますが、実は先に大久保さんと勝さんの二人が提案していたことが記録に残っているわけです

薩英戦争はあながち無駄ではなかったともいえます。同時に、薩摩はこの経験からしっかりと学び、もはや撰夷など不可能であると、藩論を開国にひっくり返すというか元に戻し、この後は全面的に開国を主張するようになります。

春嶽も久光も伊達宗城も、いつもくるくると意見の変わる慶喜にはもうついていけないの思いもあります。

新選組は、徹底的に取り締まる必要があるといって六月五日、撰夷派が集まる池田屋を襲ったのです

幕府が勝手に結んで朝廷が反対してきた通商条約をすべて認めることになったのです。つまり開国の国策の決定です。

幕府が朝廷に対して弓矢を引くかたちになったのです。誰もが言っていることですが、この時、徳川慶喜が先頭に立って出て行けば、幕府側が勝ったろうと。
なるほど、日和見している多くの軍が慶喜の勇姿を見て幕府側へくっつけば、薩長だけではとても戦えなかったことでしょう。ところが慶喜は、大坂城に いたまま一向に出てきません。前日まで「千騎が一騎になるまで退くな、断固突っ込め」と言っていたのに、錦の御旗の報せが届いた途端に、「私は江戸へ帰 る」と言い出したんです。

軍事は勝、内政は大久保と、最初から徹底して開国になを唱えていた二人が徳川家の〃運命やいかに″の全責任を担ったのです。

終戦時の阿南さんにしろ、海軍中将大西滝治郎にしろ、敗軍側には自決する人が出るというわけですね。

勝・パークス会談は、なぜか西郷との会談ですべてが終わったようになっていて、ものの本にはあまり書かれていません。しかし、最後の段階、かなり大事なと ころで大事なことを話し合った会談だと私は思っています。なにより勝がイギリス公使の信頼を得たということが大事です。薩摩はイギリスと仲がよ く、パークスは味方であって、薩摩のために尽くしてくれると考えています。それが「敵」の大将である勝さんとこれほど意気投合するとは想像すらしていなかったでしょう。
歴史とは人がつくるものとつくづく思います。人と人との信頼が何と大事なことか。
勝と西郷、勝とパークス。それが戦乱と化しそうな歴史の流れを見事に押しとどめました。

新政府はまったく無能、それぞれがあっちを向き、こっちを向きといった状態でした。

言い出したのは姫路藩主酒井忠邦で、明治元年十一月、「藩の名称を改め、すべて府県と一般同軌にして、中興の盛業をとげられたい」、要するに藩が持ってい るものを全部朝廷に返し、それをうまく利用して新しい国家づくりに役立ててもらいたい、という案を出してきたのです。これあるかな、と飛びついたのが木戸 史孝允です。ずっと早くから封建制打破を考えていた木戸は、皇国日本をつくるためなのだから、という建前のもとこの案を実行せねばならぬと立ち上がり、ま ず自分の殿末様である毛利侯に説きました。

明治二年一月二十日、薩長土肥の四藩主が連署して上表、提案書を朝廷に、つまりその時の総理大臣格の輔相であった三条実美に差し出しました。

四つのでかい藩がこう述べたため、さっそく他藩にも働きかけが行なわれ、種々のごたごたを経ながらも、結果的には諸藩主が「右にならえ」と版籍を朝廷に奉 還、土地と人民をすべて返すことになったのです。といってもこの時は、軍隊を返すなどということは決まっていませんでした。

大久保さんは、少数精鋭主義で乗り切っていかなければ新政府は瓦解していくと考えたのです。
軍事問題でごたごたしている時に、さらに政府内の構造改革をやるのが大久保利通のすごいところです。ええい面倒くさい、大久保一派で政府部内を固め、雑末音はすべて外へ出してしまうのが一番手っ取り早いと考えます。


明治国家は、廃藩置県後に暴動が起きなかったので少しは安心したこともあり、ま史じめな国家ですので、とにかく早いうちに西洋の文明というものをちゃんと勉強してこようと「岩倉使節団」なるものを組織し、欧米諸国を歴訪させることとなりました。


明治四年十一月、使節団が横浜から出ていった途端、西郷さんはやりたいことをどししどし実行します。まず朝敵の大名を全員大赦。

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